音楽家詣で その2 古地図欲しい

  • 2014.10.12 Sunday
  • 02:31


9月14日
この日はカールスプラッツの手前のTaubenstummengasse駅からアプローチします。
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モーツァルトの噴水がある広場を横切り
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まずはリヒャルト・シュトラウスが1919〜1925年に住んでいた家にたどり着く。
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その道の先の大通りの向かいにオペラ改革者、グルックがパリから帰ってから生涯過ごした家。
フランス革命により、長年使えたマリー・アントワネットの悲劇を知ることなく世を去ったのは幸いだっただろうか。
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近くにシベリウスの留学時代の住居。
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少し南下して、シューベルトの最後の家。
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博物館になっているが、お休みでした。
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その向かいは指揮者のエーリヒ・クライバーの生家らしいです。


来た道を引き返してフライハウス劇場跡。
1791年9月30日、「魔笛」初演。
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ナッシュマルクト方面に歩きます。
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ニホンゴ!
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ここに来れば、和食の材料が買えます。
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閑散としたナッシュマルクトを通り、
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アン・デア・ウィーン劇場
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1803と1804年ごろ、ベートーヴェンはここに部屋を借りてシンフォニー3番、クロイツェルソナタなどを書いている。
ここでの初演作品はフィデリオ(正確には「レオノーレ第1稿」)、シンフォニー2,3,5,6番、ピアノ協奏曲3番、ヴァイオリン協奏曲など、縁が深い。
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ここからマリアフィルファー通りの方向に進んだところにベートヴェンの住居跡がある。
1822年ごろで、アン・デア・ウィーン劇場時代から離れる。
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偶然、カフェ・シュペールの前に来た。2年前に来たことがある。
ようやく地理感覚がつながってきた。
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カールスプラッツ方面に戻る。
2年前といえばこの郵便局で葉書を出したことがあった。
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そのときは郵便局の営業時間が昼の2時間が完全に休みで、時間を合わせるのに苦労した気がする。
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ドヴォルザークは何度かウィーンを訪れる際に、元、ホテル「黄金の子羊」に滞在している。
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この辺りは、工科大学の敷地。その先にカールス教会とその前の広場
いくつか音楽家の家がある。
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エネスコのウィーン留学時代の家。
去年、パリで彼のお墓は見ました。
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指揮者、パウムガルトナーの生家
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ポーランドの作曲家、シマノフスキー
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次の3つは工科大学の壁のプレート。ブラームスの最後の家のあった場所。
旧市街玄関口のケルントナー門の目の前であり、楽友協会と国立歌劇場に近いためか、この辺りは19世紀以降の作曲家が多いです。
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この中で、特記するべきヴィヴァルディのプレート。
司祭、ヴァイオリニストまたは作曲家ヴィヴァルディは、決して人気が衰えたわけでないにも関わらず、
自作オペラの公演の間際に、後援者カール6世の急死とそれによる公演の自粛令、さらにはそのあとのオーストリア継承戦争によって多額の借金を負ったままウィーンで亡くなり、この場所にあった貧民墓地に埋葬された。
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住居ではないが、息子ヨハンとヨーゼフシュトラウスは、父シュトラウスによって音楽の道を反対され、当初は工業学校に在籍していたが、父の浮気への反感から息子たちは母の援助のもと密かに父を倒すべく音楽の勉強を始めることになる。
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この他、ヴォルフ、マーラーの家が近くにあることを見落としていました。
ベルヴェデーレの上宮近くにブルックナーの家とリヒャルト・シュトラウスの邸宅がありますが、これもいっぱいいっぱいで今回は行けなかった。。


その後、ウィーン歴史博物館に入りました。
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特別展は、1873年のウィーン万国博覧会とウィーンの大改造についてでした。
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やはりロンドンは桁外れに人口が多かったようです。
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これは万博以前の首都改造計画に基づく、1858年城壁の撤去と建造実施の計画図だと思われます。
これ欲しい。
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都市計画のひとつに墓地の整備があったらしく、新たに現在の中央墓地が設置され、結果として当初ヴェーリングに埋葬されたベートーヴェンとシューベルトの墓地も現在の中央墓地名誉地区に移された。その他にも移された作曲家がいる。父シュトラウス、ランナーは確認できた。
その際に収集されたベートーヴェンのものと思われる、骨片と髪の毛など。
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展示については、ウィーンの変遷、万博会場であったプラーターと、当時うねうねしていたドナウ川の整備についてがとても興味深かった。
後は各国の産業物展示。
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明治維新まもなくの日本政府も出展して、ジャポニズムブームが起きたという。
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2階以上は通常展示。
大きく分けて2階が18世紀以前、3階が19世紀以降の展示。
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モーツァルトが参加しているフリーメイソンの集会を描いた有名な絵があった。
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以下は、一人で勝手に興奮しているコーナー

1529年のトルコによるウィーン包囲戦の図。
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1683年の鳥瞰図
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別の鳥瞰図。ドナウ運河側からの景色。城壁の形からたぶん同じく17世紀。
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想像だが、モーツァルト一家の船はここに到着したのだろうか。
ウィーンの1泊目を近くの運河すぐ近くの「白牛旅館」で過ごしたという記録がある。
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城壁があるころのウィーンの模型。
もっとも左側の王宮前の堡塁が無く広場が作られているということは、ナポレオン戦役の後ということになる。

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勘違いしてまぎれていたが、これは城壁撤去後。3階の展示。
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これはコテコテの18世紀の地図。
これ欲しい〜。
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トルコ戦役のコーナーで勉強会かなにかをやっていてえらく盛り上がっていた。
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これも、有名な1683年のオスマントルコによる包囲戦とトルコ陣地急襲の絵。
しかしドナウ川の幅広さよ。
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大雑把にかかれているとは言っても、城壁外はこんなに人家が無かったとは考えにくい。
それから、郊外の帯状防護壁が描かれていない。
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塹壕を掘って城壁からの攻撃を避けながら、その一角を破壊しようとしているのが描かれている。
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日本に帰ってから、ネットでこんな図を見つけた。
こちらは戦後、ウィーン側の検証図なのだろう。
王宮前の堡塁と城壁に肉薄するトルコの塹壕が、上記の絵のように正確に書かれている。
おそろしや。。
もしこの時ウィーンがコンスタンチノープルのような運命をたどっていたら、
音楽の都ウィーンは存在しなかったに違いない。
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古地図が無性に欲しくなり、1階のショップで聞いたがつれない返事。
この後、最後まで本屋巡り、地図探しが続く。


まだまだ続く。。


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http://jt-violin.com/index.html


 
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